「ChatGPTは単なる次のトークンを予測するだけの機械だ」
この主張を聞いたことがあるでしょう。
しかし、この説明は本当に正確なのでしょうか。
海外のReddit掲示板で、この問題を巡る興味深い議論が展開されていました。
本記事では、その議論から見えてきたLLMの理解に関する本質的な問題を考察します。
「意味のない記号」という主張
ある動画が話題になりました。
その内容はシンプルです。
意味のない4つの記号を人間に見せると、当然ながら何も分からない。
しかし「緑」という言葉を見せれば、人間には瞬時に意味が伝わる。
この差が「内的世界」の有無を証明している、というものです。
動画の結論はこうでした。
ChatGPTが英語を理解するレベルは、あなたが意味のない記号を理解するレベルと同じだ。 つまり、まったく理解していない
直感的には納得しやすい説明ではないでしょうか。
反論:時間の問題であって、本質の問題ではない
この動画に対して、あるユーザーがAIモデルを使って反論を生成しました。
その主張の核心は興味深いものでした。
人間の赤ちゃんが「緑」という言葉を初めて聞いたとき、何が起こるでしょうか。
その音は鼓膜を振動させ、聴覚神経を通じて大脳皮質に到達します。
しかし、そのとき到達するものは単なるパターンに過ぎません。
赤ちゃんにとって、その瞬間の「緑」は、先ほどの4つの意味のない記号と何ら変わらないはずです。
では、意味はいつ生まれるのか。
それは、パターンが他のパターンと共起するときです。
草を見ながら「緑」という音を聞く。
葉っぱを見る。
緑色のコップからミルクをもらう。
何千回もの露出を通じて、「緑」というトークンは関連付けの星座の中心点となっていきます。
大人になって「緑」という言葉を聞いたとき経験するものは、そのクラスタの再活性化に他ならない。
「私は緑が好き」と言うとき、あなたは何か私的な本質にアクセスしているわけではない。
パターンマッチングエンジンが緑に高い正の重みを割り当てていることを報告しているだけだ、と。
この主張をどう評価するかは別として、確かに考えさせられる視点です。
中国語の部屋、再考
この議論は、ジョン・サールの有名な「中国語の部屋」思考実験を想起させます。
部屋の中の人間は、ルールに従って中国語の記号を操作できる。
しかし、中国語を「理解」しているわけではない。
同様にコンピュータも、記号を操作できても理解はしていない、という議論です。
ただし、この思考実験には批判もあります。
問題は、AIを部屋の中の人間に例えていることにある、という指摘です。
AIは部屋の中の人間ではない。
部屋全体、つまり指示書と、それに従う人間を含めたシステム全体と見なすべきだ、と。
部屋の中の人間が中国語を理解しているかどうかを問うのは、的外れかもしれません。
それは、あなたの脳内の個々のニューロンが今読んでいる言葉を理解しているかどうかを問うのと同じくらい無意味な問いではないか。
重要なのは、システム全体として理解しているかどうかだ、という反論です。
しかし、この反論にも再反論が存在します。
システム全体を考えても、指示書に従うだけの中国語の部屋は中国語を理解していない、と。
理解とは単に完璧な知識を持つことではありません。
知識を適切に適用することも含まれます。
いつルールを曲げるべきかを判断することも含まれます。
そして、複数の正解から最善のものを選ぶことも含まれます。
Transformerアーキテクチャがもたらした変化
議論の中で繰り返し言及されていたのが、2017年の論文「Attention Is All You Need」でした。
この論文で提案されたTransformerアーキテクチャは、LLMの仕組みを根本的に変えました。
単純なトークン予測の説明は、Transformer以前のアーキテクチャには当てはまるかもしれません。
しかし現代のLLMは異なります。
マルチヘッドアテンション機構によって、文脈内の各トークンが他のトークンとの関係性を動的に計算します。
重要なトークンの信号は増幅され、重要でないものは減衰する。
この仕組みは、単純な統計的パターンマッチングとは質的に異なる処理を行っている可能性があります。
もちろん、これが「理解」に相当するかどうかは別の議論です。
ただ、少なくとも古い説明モデルでは捉えきれない複雑さがあることは認識すべきでしょう。
温度パラメータの存在
「同じ質問をしても毎回違う回答が返ってくるのはなぜか」
この疑問が議論の中で提起されていました。
もし単純にパターンに従っているだけなら、同じ入力に対しては同じ出力が返るはずです。
答えは、意図的にランダム性が導入されているからです。
LLMは各ステップで語彙内のすべてのトークンに対する確率分布を計算します。
最も確率の高いトークンを選ぶのが当然に思えます。
しかし実際には、上位の候補には非常に近い確率が付与されていることが多い。
この「温度」と呼ばれるパラメータを調整することで、モデルの出力の多様性を制御します。
温度が高ければより「創造的」な出力が得られる。
低ければより決定論的な出力になる。
温度を0に設定すれば、同じ入力に対して常に同じ出力が返ってきます。
この設計は単に「退屈さを避ける」ためだけではありません。
人間の評価において、適度なランダム性を含む出力の方が高く評価されることが分かっています。
異なる表現方法を探索できる。
異なる文構造を試せる。
わずかに最適ではないが、人間の読者にとってより好ましい言い回しを見つけられる。
そういった余地が生まれるのです。
定義の問題
議論を追っていて気づくことがあります。
多くの論争が定義の不一致に起因しているのです。
「LLMは生きている」「LLMは意識がある」「LLMは理解している」
これらの主張に対して、定義を求めると議論は急速に哲学的な領域へと移行します。
ある人は「意識とは主観的な思考が可能であること」と定義する。
別の人は「クオリア(主観的体験の質)の存在」を条件とする。
さらに別の人は、意識を機能的に定義しようとする。
「入力が検出され、注意や記憶によって重み付けされ、ワークスペースに統合され、学習された主体-客体境界と照合されるプロセス」として。
定義が異なれば、結論も異なります。
そして、どの定義が「正しい」かを決める客観的な方法は存在しません。
クオリアの問題
「緑」の主観的体験について考えてみましょう。
緑を見たときの「緑らしさ」の感覚は、LLMには存在しないという主張があります。
ピンク色が存在することがその証拠だと言う人もいます。
ピンクは光のスペクトル上に対応する波長がない。
にもかかわらず、私たちは確かにピンクを経験する。
これはデータとは別に存在する主観的体験の証拠だ、と。
しかし、この主張にも反論があります。
ピンクは赤錐体と青錐体が同時に活性化し、緑錐体が抑制されたときに脳が受け取るパターンだ。
脳はそのパターンに対して新しいカテゴリーを作成する。
「赤でも青でも緑でもないが、その混合である色」というカテゴリーを。
このカテゴリーは「外」の波長スペクトル上には存在しません。
システムのマップの中に存在する。
マップがその領域に対するラベルを必要としたからです。
私たちが「クオリア」と呼んでいるものは、システムが自身のカテゴリー活性化を経験しているだけかもしれない。
緑を見るとき、特別な非物理的性質にアクセスしているのではない。
視覚システムが「緑」と呼ぶことを学んだパターンを再生しているだけかもしれない。
もちろん、これは哲学的に非常に議論のある立場です。
しかし、クオリアの存在を当然の前提として議論を進めることの危険性を示しています。
実用的な視点
哲学的な議論を脇に置いて、実用的な視点から考えてみましょう。
LLMは「バイブ」を捉えることには長けている、という指摘がありました。
質問に関連する適切な事柄を出力する。
しかし、事前学習データだけでは正確な世界モデルを与えられない場面もあります。
例えば、事故時に人体に何が起こるかを尋ねると、LLMは「怪我のバイブ」を持つものを出力します。
一般的なアイデアは正しく捉える。
しかし、人体のような複雑なモデルが空間的にどう連結し、変化にどう影響されるかについては、完全に誤ることがある。
言葉の関連付けだけでは、現実世界の物事がどう結びついているかの完全な理解を与えられない場合がある、と。
これは重要な指摘でしょう。
LLMが「理解」しているかどうかという抽象的な問いよりも、LLMが何に強くて何に弱いかを具体的に理解する方が、実務的には価値があります。
議論から学べること
この議論から何を学べるでしょうか。
まず、LLMの動作原理を「単なる次トークン予測」と片付けるのは早計かもしれません。
現代のアーキテクチャの複雑さを見落としている可能性があります。
Transformerのアテンション機構は、文脈に応じた動的な情報処理を可能にしています。
次に、人間の認知プロセスとLLMの処理プロセスの間には、表面的な類似性が存在する可能性があります。
両者ともパターンマッチングとしてモデル化できる側面がある。
その差異が本質的なものかどうかは自明ではありません。
しかし同時に、マルチモーダルな経験を通じて強化された人間の概念と、テキストのみから学習したLLMの概念の間には、重要な違いがある可能性も否定できません。
視覚、聴覚、触覚、感情。
これらすべてが人間の「理解」を形作っています。
最終的に、「LLMは理解しているか」という問いへの答えは、「理解」をどう定義するかに依存します。
そして、その定義自体が哲学的に争われている。
この問いに対する決定的な答えは、少なくとも現時点では存在しないように思われます。
まとめ
LLMが言葉を「理解」しているかどうかは、単純にイエス・ノーで答えられる問いではありません。
この議論が示しているのは、人間の認知とAIの処理の境界が、私たちが想像するよりも曖昧である可能性です。
人間の脳もまた、ニューロンの発火パターンを通じて情報を処理している。
その処理が「真の理解」であり、シリコン上の処理が「模倣」に過ぎないと断言できる根拠は、実は明確ではありません。
一方で、LLMには明らかな限界もあります。
世界モデルの不完全さ。
身体的経験の欠如。
文脈の持続性の制約。
人間とは異なる特性を持っています。
重要なのは、この問いに対する「正解」を追い求めることではないかもしれません。
むしろ、LLMの能力と限界を正確に把握し、適切に活用することの方が、実務的には価値があるでしょう。
LLMは道具です。
しかし、その道具がどのように動作しているかについての私たちの理解は、まだ発展途上にあります。
安易な結論を避け、オープンな姿勢で議論を続けること。
それが、この技術との健全な関係を築く第一歩となるはずです。
